「デモクラティックスクール」「教育」「学校」って、そもそも何だろう?

2010年12月12日、兵庫県の000グローバル・ビジョンで開催された、
デモクラティック(スクール)コアミーティング に参加してきました。

そのときに気づいたことを書いてみますが、
気づいたというよりは、
「もともとわかっていたことを、思い出した」ような感覚でした。

それは、「デモクラティックスクール」「教育」「学校」って
そもそも何だろう?という話です。

「デモクラティックスクール」「デモクラティック」って、何だろう?

「デモクラティック」って何だろう?

「デモクラティックスクール」と言うけれど、
そもそも、「デモクラティック」って何だろう?

「デモクラティックとは?」

輪になって、1人1人、思うことを話していきました。

その中で、1つ、大事なことに気付きました。

そもそも、私たちは、
生まれたときからすでに
デモクラティックな存在である、
ということです。

私たちは、もともと、どこまでも自由な存在

しかし、成長していく過程で、
様々な制限されるものにぶつかって、
忘れそうになっていることかもしれません。

私たち1人1人は、もともと、どこまでも自由な存在。
それが、生きている私たちの本質。

デモクラティックである、ということは、
そのことを思い出すことなんだ、と思いました。

自分がほんとうにやりたいことをやろう。
そのために生まれてきたのだから。

「教育」って、何だろう?

1人1人の中にあるものを引き出すこと

「教育=education」には、「引き出す」という意味があります。

1人1人の中にあるものを、引き出すということ。

何がほんとうに必要なのか、その答えは、1人1人の中にあります。

本来の自分に戻っていくこと

まずは、自分になっていく。
自分の中心にあるものが、すべての始まり。

そうすることで、本来の自分に戻っていく。

教育のそもそもの役割は、そこにあるということを、
今回のミーティングの中で、思い出すことができました。

「学校」って、何だろう?

「学校」の形に、決まりはない

そして、「学校」というものも、
決まった建物や校舎だけにとどまらない、ということ。

例えば、旅や、どこかへ出かけることも、「がっこう」。
人と会って話をすることも「がっこう」。
毎日出会うものすべてが「がっこう」。

学びの場は、今ここに、すでにある

学びの場は、あらゆるところに存在している。
それこそ、世界中にある。

だから、形のある「学校」という場に、
たとえ行っていても、行っていなくても、
自分に必要な学びを自分がしていれば、
それは、その人にとっての「がっこう」。

そう思ったら、私も、もうすでに
デモクラティックな場を開いている、ということかもしれない。
すでに、今ここで。

建物や校舎はないけれど、
旅も、イベントも、ワークショップも、人との対話も、
自分が開いているすべての場が、
「がっこう」のようなものかもしれません。


※2010~2017年に書いた前のブログから抜粋して、加筆修正したものを、投稿しています。

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