「ホームスクーリング」は誰にでもできる選択

周りがどうあれ、自分は自分であるということ

先日、九州ホームスクーリングネットのメンバーと、オンライン上の対話の会をやりました。そのときに、こんな話をしました。

人生の主人公は自分であって、主導権は自分にあるということ。周りで何が起きていても、自分は自分であり、自分がどうしたいかに集中していれば、そんなに大きく揺れることはないな、という話です。

そもそも義務教育とは?

では、自分は自分である、というところに立ったとき、そもそも「学校」ってどんな存在でしょうか?

そもそも「学校」には、行くという選択もあれば、行かないという選択もある。それは、自分が決めたらいい。行くという選択しかない、行かないという選択はない、というわけじゃないですよね。

そもそも「義務教育」とは、学校に行く義務ではなくて、国や保護者(大人)の側に子どもに合った教育を保障する義務がある、という意味であって、そうすると、教育の場は、「学校」である場合もあれば、そうでない場合もある、ということです。

だれがどんな選択をしてもOK

「選択肢」という意味では、いろいろある。ただ、どんな選択肢があるかを知らない、ということがあるかもしれない。いや、もしかしたら、「選択してもOK」ということを知らない、ということかも。

地元の学校に行くことももちろんだし、別の学校を選択することも、誰かと一緒に学びの場を作ることもOK。そして、今いる場所で行きたい学校がないとしても、「ホームスクーリング」は、誰にでも選択できる学び方の1つ。

そう、やりたいと思う人は誰でも、どんな選択もできる、ということを知っていること。このことが大事だと思います。

何が良いかではなくて、子ども自身が本当はどうしたいか。その声を大人がどう聴くことができるか、ということだと思います。

ホームスクーリングは、地球全体の学びにアクセスすること

話をホームスクーリングに戻します。

ホームスクーリングとは、家庭で親が何でも教えるというものでもありません。

家というベースから、今必要なことにアクセスする、ということ。まわりのものすべて、ある意味地球全体が学びの場なので、ホームスクーリングの醍醐味は、そこにアクセスできることだと思います。

学びとは、自分以外の誰かが決めたこと(あるいは誰か他の人が喜ぶこと)をこなすことではありません。誰かが一生懸命準備してくれたものであっても、自分にとって必要なものとは限らない・・・そういうこともあると思います。

ちなみに、うちの子どもも、小学校高学年から中学校までの間、ホームスクーリングを選択していました。私立の学校に通った時期と、ホームスクーリングの時期がありますが、地元の公立学校には通ったことがありません。だけど、実際には通わなくても、在籍できて、卒業資格ももらうことができます。

その間に、いろんな方とつながったおかげで、見えてきたことがいろいろあります。

学校に行くか行かないかは、どっちでもいい

また、ホームスクーリング=学校に行かないこと、というわけでは必ずしもないと考えています。というのも、ホームスクーリングは、形ではなく、1つの「あり方」だと思うからです。

例えば、学校や学びの場を利用しながら「ホームスクーリングというあり方」で過ごす、という方法もあります。

そもそも自分が出発点で、そこから自分のやりたいことにアクセスする。そのときに、学校もアクセスしてるものの中の1つ、ととらえる。

だから、行くという選択もあるし、行かないという選択もあるし、行きたいときだけ行くという選択もある。実際、そんなふうにしている子どもも知っています。

ホームスクーリングは、誰でも選択できることを知ってほしい

今、なぜこんなことを書いてるかというと、ホームスクーリングという選択は、誰にでもできるということを、もっといろんな人に知って欲しいと思っているからです。

実際に、世界中で多くの人たちがホームスクーリングで学んでいる。そして、私たち大人が、このことを知ってるかどうか、このことが意識にあるかどうかで、大きく変わってくるように思うからです。

というのも、実際には、大人が知らないと、子どもは選ぶことができないことがほとんどだからです。
親や教育関係者だけでなくて、かつては子どもだった大人が、いろんな選択ができるということを、知っていたら、これからの子どもたちの育つ社会が、もっと豊かに広がってくるように思います。

九州ホームスクーリングネット

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