自分がモデルを生きるということ~シンデモクラティックスクールセミナー①

自分のシンにある変わらないものを、確認するために

2014年12月21日、兵庫県の000グローバル・ビジョンの児島一裕さん(うーたん)の、シン・デモクラティック スクールセミナー に参加してきました。

場所は「地球学校」。
1985年に、日本で最初のフリースクールが始まった場所の、最初に始まったという6畳の部屋です。

前回、この場所には、今年(2014年)の2月の立春の前の日に来ました。

今回は、冬至の前の日。

今年のはじめと終わりの、ちょうど節目の日にここに来ていますが、ここに来るのは、いつも、自分のシンの思いを再確認するためだと感じます。

それは、変わらないものでもあるけれど、それに本当に正直になることに、いろんな抵抗があって。
だけど、それを本当に見つめたときに、次の一歩に行ける、
そのために、この場に来ていると思います。

自分が、モデルを生きる

今回、関東・関西・九州と、全国から集った8人と一緒に時間を共にして、初めて会った人もいたのですが、ずっと以前から会っているような、不思議な感覚でした。

3時間20分という、短く限られてるけれど濃い時間の中で、とくにピンときたコトバが1つありました。

それは、次のようなコトバです。

新しい情報を受け取って、新しい生き方をしようと決めたとき、その人にできることは「自分がモデルになる」ということ。

自分のこととして、自分がそのモデルを生きるということ。

モデルを生きることで、一生懸命説明をしなくても、それを見た人が、理解することができる。

そうだ、これに尽きるな、と思いました。
自分がそう生きるということなんだ。

次の一歩が、見えてきた感じです。

これからの時代の新しい子どもたちに

その他、ピンときたことばを、メモしておきます。
(その場で話されたことばそのままではなく、アレンジしたものもあります)

■今、新しい子どもたちが、たくさん生まれてきていて、その子どもたちは、今の学校やシステムに「合わない」というメッセージを送ってきているかもしれない。そばにいる大人が、それに気づくことができるかどうか。

■人間はみんな創造性を持って生まれてくる。その創造性を、幸せに維持し続けるためには、それを維持し続けられる場所をつくらないといけない。

■そんな場所は、いろんなカタチがあっていいし、身近にたった1人話せる大人がいるだけでもいいかもしれない。だけど、(例えばフリースクールのように)そんな場が「学校」として存在する、し続けていることで、そのことによって、「こんな学校があるんだ」「こんな学校でもいいやん」と、親が思うことができる。そんな意味もある。

■「死の学校」は、将来の何かのために学んでいる学校。「いつか」は「今」とはつながっていない。「生の学校」は、自分が今知りたいことや今しゃべりたいことを相手とキャッチボールすることができる場。対話のある場。

■しゃべるということは、脳に刺激を与えることで、それによって、直感やひらめきが生まれる。子どもたちは、しゃべりたくて仕方がない。その相手がいるということが大事。 

■だけど、しゃべることもできず、興味があるかどうかもわからないのに、その場にいることを強いられる時間が長いということは、どういうことをもたらすのだろう?

いのちを大事にして生きるモデルに、まずは大人から

今、悩んでいる子ども、苦しんでいる子ども、あるいは、苦しんでいることにも気づかずに我慢している子どもは、すぐ身近にいるかもしれません。

身近な大人が、それに気づくことができるかどうか。
それでも大丈夫、と寄り添える大人がいるかどうか。
いのちを削ることでなく、自分のいのちを大事にすることが、何よりまず大事だと気づく大人が、身近にいるかどうか。

そして、そんな生き方をしているモデルがいるかどうか。

「自分がモデルを生きる」ということで、何ができるのかを、まずは、はじめてみようと思っています。

※2010~2017年に書いた前のブログから抜粋して、加筆修正したものを、投稿しています。

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