九州ホームスクーリングネットで、時々、オンラインでお話会をしています。
あらかじめテーマは決めず、
集まったメンバーから、近況報告を聞いて、
この場で話したいことを最初に言ってもらってから、
その日に話すことを決める、
という流れでやることが多いです。
先日のお話会では、
最初の話で、「ひまって大事」という話題が出たので、
「ひまって何?」について話すことになりました。
「ひま」ということばに、何を感じるかは、人それぞれ
面白かったのが、
「ひま」という言葉1つとっても、
人によって感じ方・とらえ方が全然違うということ。
また、このことばにどんな感情が湧いてくるかも人それぞれ、ということがわかりました。
例えば、ある人にとって、「ひま」とは、やりたいことができない状態であること。
これは、10代の人が言っていたんですが、これを聞いたとき、なんだか新鮮でした。
その子が言うには、
「学校で、ずっと座っていないといけなくて、他のことができない時間がひま」だったり、
「車に乗って移動してるときに、他にすることがないからひま」、という意味だそう。
これって、誰かに何かを制限されてるときに感じるのかな?
他のティーンエイジャーにこの話をしたら、「むっちゃわかる!」と言っていました。
「ひま」って、いけないものなのか?
また、次のような話も出てきました。
「ひまがないと言ってる子どもが多いかも。そして、大人も、ひまにしてはいけないと思っているかも」
「大人になってから、ひまはありがたいものだと思えるようになった」なども出てきました。
「ひまとは?」の意味につながる、絵本を紹介してくれた人もいました。
私はというと、昔は、「ひま」は良くないことのような気がしていて、
「ひま」があればそれを埋めようとしていたことと、人にもそれを要求していたことを思い出しました。
だけど、ひまが良くないものだという感情は、そもそもどこからはじまったんだろう・・・。
ひまは、なくてはならないもの
今は、「ひま」は、自分が自分になるためになくてはならない時間だと思っています。
自分の時間は、本来自分のもので
誰かに決められるものじゃない、と思えるようになったからです。
「ひま」であることを、
自分の中で十分に満喫して、
もうがまんできないくらいになったとき・・・
本当の意味で、自分の中から何かが生まれてきたり始まったり
ということがあるんじゃないかな、と、今なら思います。
「ひま」を感じることができるとき
そんなことを考えていたら、ふと、思いました。
そもそも誰のものでもない、
もともと自分のものである時間というもの。
それが、本来はたっぷりあることに気づいたときだったり、
誰かの都合で動いていたものが本来の場所(自分のところ)に戻ってきたとき。
そんなときに、「ひま」って感じ始めることがあるのかも。
だとしたら、「ひま」と感じることは、
自分が自分であるという証拠なのかも。
この感じ方、捉え方、人それぞれなんだろうな。
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